仕事絡みで、Twitter依存の自覚がある方の話を、定期的に聴いている。今聴いているのは3名、いずれも女性。
私は、世に携帯もスマホも無い時代からのパソコンヲタクなので、その延長にスマホがありTwitterがある。私のネット依存は昔からあまり変わらないけど、それなりに適度な距離感の依存だと自分では思う。
仕事柄パソコンに向かってる時間は長いので、LINEも出会い系もTwitterも、このブログを書くことも、パソコンからのログインがデフォルトで、どれも『仕事しながら』の遊びの範囲。割と何でも全力だからマメだと思われるけど、実はそうでもない。
依存は悪い事じゃない。
日本なんか全国民``共依存‘‘だと思うし、赤ちゃんなんか依存しなきゃ生きていけない。
問題はその距離感。共依存的なのは嫌い。
依存と中毒って似てるけどちょっと違う。
中毒って病気だもんね、だから治療すれば治る。でも依存は治らない、らしい。
ネットの世界に倒錯していくのは、やっぱりそこが別の世界だから。
そして承認欲求が満たされるからなんだろうと、自分も含めてそう思う。
私もこのブログを書いてるのは、その先に読み手がいるから。
誰も読まないノートに日記を書いてるのとは少しニュアンスが違う。やはり人は自分のことを、誰かに認められたい生き物なのだろうと思う。
もちろん、私は充分に自分で自分の事を認めているし、それなりに社会的にも認めてもらっている。だから満足、といかないところが人間の面白さであり、バカバカしさでもあり、ユーモアでもあると思ってる。
やっぱり誰かに私を理解してもらい、共感してもらい、自分で腑に落ちたいのだ。
Twitter依存になってる方々は、日々の時間の多くをスマホ画面を睨んで費やしているらしい。生活の中心がTwitterとそれに関する事柄みたいな。
とにかくフォロワーとファボ(良いと思った投稿に♡を押す、『いいね』と同じ?)の数を気にしてる。
「なんか最近コツをつかんだと言うか、ああ、こうゆうツイートしたら、沢山の人が共感してくれてファボしてくれるんだなぁってわかったんで。だからそこ狙いで、毎日ネタを考えてるところがあって…」
「え、ネタでツイートするの?」
「だって、私の本心なんか、誰も気にしてないでしょう?これって承認欲求なんですかね。フォロワーさんに良いと思われたいんですよね。結局人に好かれたいんです。毎日フォロワーの数やファボの数で安心したり、絶望したり…」
驚いた。ネタなのか。
そもそもTwitterは140文字の呟きだから、好き勝手思うがままに呟けばいいと思うんだけど(少なくとも私はそうだ)
承認欲求ってすごいね。そこまで自分に不自由を強いてまで、他人に認めてもらいたい気持ちになるんだね。ファボ集めのゲームに夢中になって依存的になって、気付いたら抜けられない。
ネットの世界でコミュニケーションを取っていく過程はとても好きだし、昔からネットで友達を作って来たので(転勤族だったのでそれは夢のアイテムだ)夢中になる気持ちがわからないわけではない。ただ、それが相手の期待に応えて好いてもらうための行動に映る違和感は、なんというか虚しさを感じる。
話すと、ちゃんと自我も自分の意思も明確な彼女達。それだけTwitterに依存性があるということなのか。それとも日々認められてないのか、自分が自分を認められないのか。
なんか恋愛みたい。
私は恋愛依存の自覚がある。
恋してる自分が好きだし、恋していない自分はあり得ないとも思う。
だけど男には依存しない。
自分がどう思うか、どうしたいか、どうだったら心地よいのか、それだけを求めてる。
例え一見ネガティブな感情でも、自分が味わいたいのならどっぷり味わおうと思う。
恋愛って楽しい事だけじゃない。不安になったり悲しくなったり、嫉妬したり絶望したり。だけどそうゆうの全部、私は味わいたくてやってる自覚がある。
だって恋愛だもん。恋愛というツールを使わないと、私の心を揺さぶられないんだもん。
揺さぶられた心は、たくさんの感情と共に心的成長を促して、面白い化学反応がたくさん起きるんだから、自分を使って人体実験をしてる。ついでに男性心理なんかも観察して、自分の持ち合わせないアイデンティティを知ることもできる。
そっか、だから私は恋が好き。新しい恋も、古くて長い恋も、終わった恋も全部好きで、こうしてブログで恋の発表会をするのも大好き。
だけどこの欲求がもっと加速して、例えば読み手の期待に応えるような書き方になってくると、ブログはヒットするかもしれない。だけどそれは私の書きたい事じゃない気もする。
Twitterもそう。割とどうでも良いつぶやきもするけど、それはファボがたくさん貰えるためじゃない。だけど誰か、スマホの向こう側には読み手は欲しい。たくさんじゃなくていいから、わかってくれる誰か(少なくとも今の私はそうなんだけど)
「ねぇねぇ聞いて!」
って、誰かに話してる感覚なんだけど。
あ、だから心を打ちぬかれたような、自分をわかってもらえたようなリプライがあるとすごく嬉しい気持ちにもなる。
承認欲求って難しい。
マズローの欲求5段階説によると、承認欲求(尊重欲求とも言う)には低いレベルと高いレベルがあるそう。低いレベルの承認欲求は、他者からの尊敬、名声、注目などを得ることによって満たされて、高いレベルの承認欲求は、自己尊重の意識付け、技術や能力の習得、自立性などを得ることで満たされ、他人からの評価より自分自身の評価を重視する傾向にあるそうだ。
ということは、依存的になる承認欲求は、低いレベルの承認欲求ということ?
恋愛に置ける承認欲求は…難しい。高いところと低いところと、混在してる気がする。
まぁTwitterも同じか。混在してるから余計にややこしい。
認めてほしい、わかってほしい、共感してほしいと思う。それは過去の私はとても強い時期があって、Twitter依存になる人の気持ちもよくわかる。
元々筋金入りのネット依存だし、若い頃は摂食障害だった。摂食障害って歪んだ承認欲求だと思う。自分を戒め、苦しめてでも手に入れたい理想の自分。誰にも理解されなくても、その体重やウエストの細さになれば、自分は何かを得た気持ちになれる。
そうゆう意味ではその頃から私は何も変わらないのかな?
ただ欲求を上手にコントロールできるようになってるだけかも。それなりに折り合いの着くところで妥協して、納得して、腑に落ちる。
それが大人になるということなら、なんだか空しいな。
でも私は、自分の価値づけを相手に任せたりしない。
そこに何かがあるんじゃないだろうか、中毒になるかならないかの、トリガーというか。
確かに数字は気になる。目標を超えていくのが元々好きだから、ダイエットの数字も拘るし好きだと思う。
Twitterのフォロワーやファボの数は、明確に数字に出るから、そこにハマってしまうのもわかる気がする。だけどだからって、画面の向こうの読み手に媚び売ってまで、数字を伸ばそうとは私には思えない。
そうか、そこなんだよね。相手に価値づけを任せちゃうと依存的要素強めなのかもしれない。恋愛も相手の顔色に一喜一憂しすぎてたら、それはちょっと依存なのかもね。
まぁそうは言っても恋は恋。多少相手の言動や顔色は気になるモノだけど。
自分勝手な私でも、やっぱり気にはしてるし。気にしてても態度に出すかどうかは考えて決める。大人だから、そこは上手にやらないと。恋のゲームに負けたくはない。
Twitterは不特定多数が相手だから、なかなか難しいのかなぁ~
今日もTwitter依存の話を聞きながら、私自身は大丈夫?実は上手く回ってないのかしらとか、色々思ってしまった次第。恋愛も完璧に依存だしなぁ。
一週間誰ともデートしてないと、禁断症状的な飢えが来る(笑)
オシャレして、綺麗にメイクして、誰かとお出かけしたい欲。
誰かと、だから誰か1人に絞れないんだろうな。
だから私は、男に依存ではなく、恋愛に依存してるのだけど。
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*明日8月25日はブログ更新お休みします*
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